浮魚日和

読書しながら考えたことをメモしています。

歴史教科書

百田尚樹・有本香『「日本国紀」の副読本』読了。話題を呼んだ『日本国紀』を執筆した動機や経緯については、これまでもネットの動画などで、百田さんが発言していた。本書では、さらに、そのダイナミックな執筆スタイルについても紹介されていて、とても面白かった。

はじめはざっくりと書きながら、大胆に削ったり差し替えたりと。隘路に絡めとられずに、本来描きたいテーマの本筋を貫けるのが凄い。テレビの構成作家という仕事が、執筆スタイルにも影響してるのだと思う。

また、本書では、歴史教科書の問題点も具体的に指摘されている。保守系の教科書が登場したときには、散々騒がれたけれど、逆方向の行き過ぎはほとんど報道もされない。ところが、現状は、かなり恐ろしいことになっている。贖罪史観一色での唐突な書きぶりには、背筋が寒くなる。特に、学び舎の教科書が酷い。

出版界では左翼系のものはだんだん売れなくなってきているけれど、教育の世界では、日教組の影響力が低下しつつも、基礎となる教科書が酷いことになっている。

竹田恒泰さんの歴史教科書が、検定不合格となったらしいけれど、再度挑戦して頂きたいと思うし、不合格本の出版も楽しみ。

教育現場であまり好き放題やっていると、学校制度自体が解体されることになるような気がするし、その方が良いのかもしれない。義務教育も、時代的使命を終えたのか。

自由(liberty/freedom)

西尾幹二『あなたは自由か』で再認識したのだけれど、「自由」を意味する英語には、libertyとfreedomがあるのだった。

無軌道かつ漠然とした「自由」拡大の風潮に対し、西尾先生は以下のように警告する。

自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです。

ここで「豊富に与えられる」「自由」がlibertyであり、「自由をもたらしません」の「自由が」freedomなのだろう。このように、市民的権利としての外的自由と人間の内的自由とを、libertyとfreedomとに区別している点で、英語は優れている。日本語は「愛」と「恋」を区別するけれど、このような区別は一般的ではない。ここに重点を置くのは日本語らしいと思う。自由を区別するのは英語の美質だ。

本書は読みやすいけれど、全体を通じて、著者とともに読者も自由について自ら問い直すことが求められているような厳しさがある。現代において最も重要な概念ともいえる「自由」。著者も結論を急ぐようなことはしないのだけれど、深い考察を伺わせる以下の文章にひとつの結実を見る。

おそらく、想像するに、「自由」は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。

日本語の「自由」は、漢語として導入された後、仏教思想を媒介としつつ、重要な概念として練り上げられ定着してきた。その経緯については、小堀桂一郎先生の『日本人の「自由」の歴史』に詳しい。この日本語の「自由」には、どこか「自発性」につながる含意を感じる。

「自由」は西尾先生の長年のテーマでもあるのだけれど、以下のような記述が少し気になる。

日本語の「自由」には、明治期に選ばれたこの訳語の適否というもう一つ厄介で、大きな別の問題があります。

これは、日本人は「自由」という漢語を自らのものとして使いこなしてきているけれど、それを西洋の言葉の訳語として、明治期に改めて選んだということを意味しているのだろうか。それとも、明治期に「自由」が造語されたという誤解に基づくものなのだろうか。

西尾先生が小堀先生の著作を読んでいないとも思われないのだけれど、以下の小堀先生の一文を踏まえると、西尾先生の言葉はやや不可解である。

日本人は凡そ国語文献の歴史が始まつて以来約千三百年余の長きに亘つて「自由」といふ言葉の含有する、時に深遠で高邁な、時に無頼で軽燥な、又時に閑雅で悠揚たる、各種の価値とその意味について、十分の経験を積み、思索を重ね、その結果をも享受してきた

そのあたりの事情についても、改めて御著書を通じて教えて頂ければと思う。

本書(『あなたは自由か』)において最も印象的だったのは、近代と自由を巡る、ヨーロッパと日本の共通性である。たとえば、このような一文がある。

ヨーロッパも日本も強大なイスラム文明や中華文明から学習しつつ、解放されて近代の進歩と自由を獲得し、歴史の第一線に躍り出たといっていいのです。

ヨーロッパが、イスラム文明を通じて、自ら拠るべき「古典」を「再発見」し、そこから自らのイメージを自覚的に確立していったように、日本も、中国をモデルとして学びながら、次第に独自性に目覚め、自己イメージを確立していったということなのだ。

辺境文明に特有の封建諸侯の切磋琢磨が、モノトーンで塗りつぶされる一様性を拒み、近代のプレーヤーとしての自覚の母体となったのかもしれない。だとすれば、古田博司先生によると、このような地域は、欧州と日本の他には、北インドしかない。

多くの問題を抱えながらも、どうにか民主的な選挙に基づく政治が機能しているインド。ここに近代的「自由」が着床できるだろうか。中国の暗黒の古代に呑み込まれてしまうのか、それとも、ヨーロッパと日本の遺産を、インドが継承できるのか、人類の行く末に関わる問題になるだろう。

Good looking, good flight

神田國一『主任設計者が明かすF-2戦闘機開発』読了。

本来は国内開発すべきだったFS-X(F-2)。そこに、アメリカが共同開発を強引に持ち掛けてきて、F-16ベースの日米共同開発で押し切る形となった。日本の航空機製造能力向上を許さないということと、米国製軍用機のシェア確保という問題意識があったのだろう。

そして、共同開発を押し付けた後には、一転して、軍事情報の出し惜しみが始まる。共同開発とはいえ、日本の優れた複合材技術などを吸収する一方で、米国側の情報は開示しないという非対称なやり方。

しかし、技術供与がないことにより、日本側の独自開発領域が広がり、結果的に日本の軍事技術向上につながった。重要なアビオニクスシステム(火器管制レーダー、慣性基準装置、ミッションコンピュータ、電子戦システム)を独自開発しただけでなく、飛行制御コンピュータ、飛行制御測、関連ソフトウェアをも日本側が開発し、インテグレートする結果となった。

F-22やグリペンなどにも、飛行制御システムの不具合による事故は少なくなかったが、F-2では、初飛行から継続して、これによる事故は発生していない。

F-16に比べて、主翼の後退角をやや抑えて、敏捷性を強調するかのようなデザイン。ロールアウト時に来日したロッキード会長兼CEO・テレップ氏は、初号機を見て"Good looking, good flight."との言葉を残した。美しいと、よく飛ぶ。見た目の美しさは、飛行性能の高さを示すということか。

F-2は、海洋からの侵攻を阻止しようとする海自、陸自に対する航空支援、その目的に絞られているため、実戦配備された機体は、潔いほどに鮮やかな洋上迷彩。白の縁取りの日輪が映える。その美しさが示すように、高い飛行性能を誇り、横風の強い松島基地においても、横風用滑走路を使わずに、主滑走路のみで運用されているとのこと。

F-16に似てはいるものの、図面の95パーセントは変更され、主翼もジュラルミンではなく複合材一体成型という野心的なもの。日本側で開発した飛行制御系も信頼性が高く、全く別の戦闘機に仕上がっていた。ちなみに、主翼担当の三菱重工の技術者は、後に、ボーイング787の主翼開発にも、当初から参加することとなった。

FS-Xを巡る報道は、日本の独自開発の芽をアメリカに潰されたという印象でフェードアウトしてしまい、その後のフォローアップが充分でない印象だった。それが実際には、様々な障害に立ち向かった技術者の奮闘により、平成のゼロ戦とも称される傑作機F2が誕生していたのだった。

F-35は完成機の輸入になるようだけれど、ドローンの時代を迎えて、おそらく最終世代の戦闘機になるであろうF-3は、エンジンも含めて国内開発として、F-2の技術を継承してもらいたい。

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