浮魚日和

読書しながら考えたことをメモしています。

「自由」と「自由公海圏」

小川榮太郎氏の記念論文「「危機」と「知識人」ー「世界史を動かす「思想」の力を手にせよ」」『正論』(3月号)を拝読し、現在の日本の危機が思想の不在にあるといふことに共感した。

中国には、内容は定かではないものの、「習思想」なるものが打ち立てられており、「中華民族の偉大な復興」といふ言葉が、あらゆる文章に挿入されて繰り返し提唱されてゐる。その実態は、個人独裁に基づく華夷秩序的世界支配であり、最近では、その野望を隠さうともしない。ナチズムや共産主義といふ様々な装ひで登場した全体主義は、その最終形態へとグロテスクに深化してゐる。

その全体主義の膨張に抵抗しつつこれを封じ込めるために最も重要なことは、思想の基軸を据ゑることである。

知識人による思想の営みが不足してゐる現状において、対抗思想として機能してゐるのは、安倍外交の基本である「法の支配」「人権」「自由貿易」であり、小川氏はこれらを高く評価する一方で、「世界史の現実に早晩追ひ越されるのは確実」と分析してゐる。

「法の支配」を、大陸法的な「法治主義」の意味で解釈すると、これは確かに、中国の支配の拡大に伴つて、その有効性を失ふどころか、支配の道具として逆用されることにもなるであらう。独裁者の恣意により「法」が変更された場合に、価値中立的な法治主義は、これを抑止するどころか強化してしまふのである。

これに対し、英法の伝統的な意味における「(古き善き)法の支配」は、価値判断を伴ふものである。不完全なる人間のその時々の試行錯誤を経時的に包含して培はれた伝統に依拠しつつ、一時的かつ恣意的な法律の変更に対し、一定の歯止めをかけやうとするものである。

しかしながら、この「法の支配」を実践してきたイギリスは、内外二重基準といふ問題を抱えてゐる。すなはち、自分達は法の支配の原則に従つて行動するものの、対外的には勝手なルールを押し付けるやうな側面が否定できない。

さうすると、「法の支配」といふ尊い思想も、「法治主義」として曲解されるおそれや、イギリス史における内外二重基準を考慮すると、旗印としての安定を欠くと云はざるを得ない。

そこで、より直截に、全体主義に対抗するのに最も有効な「自由」の二字を、思想の中心として再確認すればよいのではないか。

支配に抗ふといふ意味だけでは、思想的な深みはないが、日本人が歴史をかけて培つてきたこの「自由」といふ言葉には、「自発性」といふ含意もあり、その射程は広く深い。

明治期に、freedomやlibertyの訳語として「自由」が造語されたといふ誤解があるが、小堀桂一郎先生の『日本人の「自由」の歴史』に緻密に論証されてゐるやうに、「日本人は凡そ国語文献の歴史が始まつて以来約千三百年余の長きに亘つて「自由」といふ言葉の含有する、時に深遠で高邁な、時に無頼で軽燥な、又時に閑雅で悠揚たる、各種の価値とその意味について、十分の経験を積み、思索を重ね、その結果をも享受してきた」のである。

そして、小堀先生による以下のやうな自由の解釈が、全体主義に対抗しうる思想の中核にふさはしいものと思ふ。

人間にとつて自由の究極の意義は、各自が父母未生以前の本来の面目を我身に於いて実現する、といふ所に在るのではないか。それは個人を超えた民族といふ集合体に於いても同じことで、一民族にとつての自由とは、民族の先祖未生以前の本来の面目を、集合体としての民族の現在に実現することなのではないのか。

小川氏は、国家が悪に対するに当たつての安岡正篤による五分類を挙げ、そのうちの「神武型」(人間の道を重んずるがゆえに悪を憎んで断固としてこれを封ずるという態度)に注目し、「神武の平和」といふキーワードを提唱されてゐる。

しかしながら、「人間の道」や「悪」といふ強い価値判断を伴う概念は、我が国が外敵に対抗するといふ局面において有効ではあるものの、全体主義を封じ込めるために諸国・諸民族が連帯するための旗印にはなりにくい。

そこで、価値判断をできるかぎり各民族の自発性に委ね、その自発性としての自由を確保するための外枠を、諸国民の守るべき国際法として育ててゆくべきではないだらうか。

小堀先生は、『日本に於ける理性の傳統』において、北畠親房の『神皇正統記』に現れた視点に注目され、普遍主義を越えたものとして、以下のやうに高く評価しておられる。

天竺、震旦、本朝の順にいはゆる天地創造神話を列記・比較し、この様に各國各様の考へ方がある、とだけ記し、その間の優劣を一切論はない、さういふ見事な文化相對主義を見せてゐる

「相対主義」自体は軸のない弱いものであるかもしれないが、各自の自発性を最大限に担保する外枠だけは絶対に固守する、といふやうに捉え直すならば、明快で強い主張たりうるのである。

その重要なる「外枠」を維持するには、中国の「一帯一路」に対抗する手段が必要である。習思想の内容は、曖昧模糊としてよくわからないのだが、その実現手段としての「一帯一路」は、明確な像を結んでゐて強い訴求力がある。

これに対して我々は、「セキュリティダイアモンド構想」「自由と繁栄の弧」「自由で開かれたインド太平洋」などと、その時々の造語で、イメージを拡散させてしまつてゐる。また、これらは、地域的限定を伴うものでもあり、さらに一般的で明快な言葉に収斂させる必要がある。

そこで、「自由公海圏」(Liberated High Seas)といふ言葉に集約するとよいのではないだらうか。語感として、国際法の父であるグロティウスの著作『Mare Liberum』を、軸線の彼方に想起することにもなり、Liberatedには、侵略された南シナ海を奪還するイメージも重ねられてゐる。

このやうに、最も抽象的な思想の平面においては、「自由」を、そして、その実現手段として「自由公海圏」を、それぞれ、「習思想」と「一帯一路」に対抗させて、これを封じ込め、全体主義に対する防波堤としたい。

紀元節

歴史学の世界では、仁徳天皇や天智天皇からの「日本」を認め、それ以前の皇統については、たとへば「古代史よりはさらに遠い、原史時代の伝説の世なのである」(岡田英弘『倭国の時代』)といふ見方がある。

このやうな視点による実証重視の歴史学も貴重である。しかしながら、国家や民族の伝統や理想は、実証の中だけにあるのではない。ある実証的な建国の時点を基準にしても、王朝がその瞬間に突如発生するわけではない。高祖といふ言葉があるやうに、建国あるいは創業の理想は、さらに先祖に遡るのである。外形的客観的には「建国」の実質を備えてゐなかつたとしても、そこから何らかの経時的な営みが継続してはじめて、建国として結実するのであるから、外形的客観的「建国」が由来する流れの濫觴を、紀元節とすることは極めて自然なことである。といふよりも、その濫觴こそが紀元節でなければならない。

「古代史よりはさらに遠い、原史時代の伝説」であることを客観的に見つめることと、紀元節を祝ふこととは矛盾なく両立する。ただ、今日のこの日に、このやうに文字を重ねるのは野暮といふものではある。




日本における理性と自由

小川榮太郎氏の論文に触発されて、何点か書きたいことがあるのだけれど、そのためにも、小堀桂一郎先生の意味での「自由」について復習してゐる。

小堀桂一郎『日本人の「自由」の歴史』再読の前に、まずは未読の『日本に於ける理性の傳統』を拝読。この本の帯には、「西洋近代は慈圓に後れること三百年の出來事だつた」とあり、これだけでも強く惹きつけられるが、「理性」からさらに、日本思想における超越者についての考察が非常に魅力的である。

このやうな点については、別の機会に改めて考へるとして、今回注目したいのは、本居宣長を正当に評価されつつも、からごころに対抗した宣長自身が、普遍主義といふからごころに捉はれてゐはしないかといふ疑問を提起されてゐることである。それに対し、北畠親房の『神皇正統記』における視点を、「天竺、震旦、本朝の順にいはゆる天地創造神話を列記・比較し、この様に各國各様の考へ方がある、とだけ記し、その間の優劣を一切論はない、さういふ見事な文化相對主義を見せてゐる」と賞賛されてゐる。

攻撃的に浸透しやうとする、からごごろに代表される普遍主義は、現代においては、共産主義などの全体主義といふかたちをとり、我々を呑み込まうとしてゐる。小川論文における神武の平和は、攻撃的な普遍主義でも何でもないのだけれど、それよりも、小堀先生が紹介された北畠親房の視点が、さらに日本の拠るべき立場として徹底されたものではないかと考へてゐるところだ。

それを単なる文化相対主義としてしまふのではなく、全体主義に対抗する思想として洗練し、現代に蘇らせることができないだらうか。
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