西尾幹二『あなたは自由か』で再認識したのだけれど、「自由」を意味する英語には、libertyとfreedomがあるのだった。

無軌道かつ漠然とした「自由」拡大の風潮に対し、西尾先生は以下のように警告する。

自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです。

ここで「豊富に与えられる」「自由」がlibertyであり、「自由をもたらしません」の「自由が」freedomなのだろう。このように、市民的権利としての外的自由と人間の内的自由とを、libertyとfreedomとに区別している点で、英語は優れている。日本語は「愛」と「恋」を区別するけれど、このような区別は一般的ではない。ここに重点を置くのは日本語らしいと思う。自由を区別するのは英語の美質だ。

本書は読みやすいけれど、全体を通じて、著者とともに読者も自由について自ら問い直すことが求められているような厳しさがある。現代において最も重要な概念ともいえる「自由」。著者も結論を急ぐようなことはしないのだけれど、深い考察を伺わせる以下の文章にひとつの結実を見る。

おそらく、想像するに、「自由」は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。

日本語の「自由」は、漢語として導入された後、仏教思想を媒介としつつ、重要な概念として練り上げられ定着してきた。その経緯については、小堀桂一郎先生の『日本人の「自由」の歴史』に詳しい。この日本語の「自由」には、どこか「自発性」につながる含意を感じる。

「自由」は西尾先生の長年のテーマでもあるのだけれど、以下のような記述が少し気になる。

日本語の「自由」には、明治期に選ばれたこの訳語の適否というもう一つ厄介で、大きな別の問題があります。

これは、日本人は「自由」という漢語を自らのものとして使いこなしてきているけれど、それを西洋の言葉の訳語として、明治期に改めて選んだということを意味しているのだろうか。それとも、明治期に「自由」が造語されたという誤解に基づくものなのだろうか。

西尾先生が小堀先生の著作を読んでいないとも思われないのだけれど、以下の小堀先生の一文を踏まえると、西尾先生の言葉はやや不可解である。

日本人は凡そ国語文献の歴史が始まつて以来約千三百年余の長きに亘つて「自由」といふ言葉の含有する、時に深遠で高邁な、時に無頼で軽燥な、又時に閑雅で悠揚たる、各種の価値とその意味について、十分の経験を積み、思索を重ね、その結果をも享受してきた

そのあたりの事情についても、改めて御著書を通じて教えて頂ければと思う。

本書(『あなたは自由か』)において最も印象的だったのは、近代と自由を巡る、ヨーロッパと日本の共通性である。たとえば、このような一文がある。

ヨーロッパも日本も強大なイスラム文明や中華文明から学習しつつ、解放されて近代の進歩と自由を獲得し、歴史の第一線に躍り出たといっていいのです。

ヨーロッパが、イスラム文明を通じて、自ら拠るべき「古典」を「再発見」し、そこから自らのイメージを自覚的に確立していったように、日本も、中国をモデルとして学びながら、次第に独自性に目覚め、自己イメージを確立していったということなのだ。

辺境文明に特有の封建諸侯の切磋琢磨が、モノトーンで塗りつぶされる一様性を拒み、近代のプレーヤーとしての自覚の母体となったのかもしれない。だとすれば、古田博司先生によると、このような地域は、欧州と日本の他には、北インドしかない。

多くの問題を抱えながらも、どうにか民主的な選挙に基づく政治が機能しているインド。ここに近代的「自由」が着床できるだろうか。中国の暗黒の古代に呑み込まれてしまうのか、それとも、ヨーロッパと日本の遺産を、インドが継承できるのか、人類の行く末に関わる問題になるだろう。