浮魚日和

読書しながら考えたことをメモしています。

2018年02月

紀元節

歴史学の世界では、仁徳天皇や天智天皇からの「日本」を認め、それ以前の皇統については、たとへば「古代史よりはさらに遠い、原史時代の伝説の世なのである」(岡田英弘『倭国の時代』)といふ見方がある。

このやうな視点による実証重視の歴史学も貴重である。しかしながら、国家や民族の伝統や理想は、実証の中だけにあるのではない。ある実証的な建国の時点を基準にしても、王朝がその瞬間に突如発生するわけではない。高祖といふ言葉があるやうに、建国あるいは創業の理想は、さらに先祖に遡るのである。外形的客観的には「建国」の実質を備えてゐなかつたとしても、そこから何らかの経時的な営みが継続してはじめて、建国として結実するのであるから、外形的客観的「建国」が由来する流れの濫觴を、紀元節とすることは極めて自然なことである。といふよりも、その濫觴こそが紀元節でなければならない。

「古代史よりはさらに遠い、原史時代の伝説」であることを客観的に見つめることと、紀元節を祝ふこととは矛盾なく両立する。ただ、今日のこの日に、このやうに文字を重ねるのは野暮といふものではある。




日本における理性と自由

小川榮太郎氏の論文に触発されて、何点か書きたいことがあるのだけれど、そのためにも、小堀桂一郎先生の意味での「自由」について復習してゐる。

小堀桂一郎『日本人の「自由」の歴史』再読の前に、まずは未読の『日本に於ける理性の傳統』を拝読。この本の帯には、「西洋近代は慈圓に後れること三百年の出來事だつた」とあり、これだけでも強く惹きつけられるが、「理性」からさらに、日本思想における超越者についての考察が非常に魅力的である。

このやうな点については、別の機会に改めて考へるとして、今回注目したいのは、本居宣長を正当に評価されつつも、からごころに対抗した宣長自身が、普遍主義といふからごころに捉はれてゐはしないかといふ疑問を提起されてゐることである。それに対し、北畠親房の『神皇正統記』における視点を、「天竺、震旦、本朝の順にいはゆる天地創造神話を列記・比較し、この様に各國各様の考へ方がある、とだけ記し、その間の優劣を一切論はない、さういふ見事な文化相對主義を見せてゐる」と賞賛されてゐる。

攻撃的に浸透しやうとする、からごごろに代表される普遍主義は、現代においては、共産主義などの全体主義といふかたちをとり、我々を呑み込まうとしてゐる。小川論文における神武の平和は、攻撃的な普遍主義でも何でもないのだけれど、それよりも、小堀先生が紹介された北畠親房の視点が、さらに日本の拠るべき立場として徹底されたものではないかと考へてゐるところだ。

それを単なる文化相対主義としてしまふのではなく、全体主義に対抗する思想として洗練し、現代に蘇らせることができないだらうか。

かなづかひ

以前から、小堀桂一郎先生の文章に憧れてゐて、内容も素晴らしいのだけれど、スッキリと清々しいあの文体に特に惹きつけられる。

そんなこともあつて、正字正仮名で綴ることを将来の目標としてはゐるのだけれど、なにしろ漢字の知識もなく、大学受験期を理科系で過ごしたこともあつて、文系の一般的知識にも欠けるのでなにかと難しい。

それでも、荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』を入手して読んでみたところ、あまり難しく考えずに、まずやつてみた方がよいと思ふやうになり、正字は将来の課題としつつも、かうして正仮名には挑戦してみることにした。

さらには、小堀先生の御著書に引用されてゐる様々な古典にも手をのばしつつ、拠つて立つべき日本、守るべき伝統について、考へてみやうと思ふ。日本を大切に思つゐても、戦後主流の知識人達から無知無能扱ひされてゐるやうでは仕方がないので、とにかく地道に学んでゆくしかない。

「思想」の力

小川榮太郎「「危機」と「知識人」ー「世界史を動かす「思想」の力を手にせよ」」『正論』(3月号)を読み、現在の日本の危機が思想の不在にあるといふことに共感した。

一読後、とりあえず以下のやうにtweetしたのだけれど、これからじつくりと「自由」といふキーワードに依拠して、この論文に対する感想を書いてみたいと思つてゐる。



まずは、小堀桂一郎『日本人の「自由」の歴史』を再読しつつ、書くべきことを整理してみやう。
ギャラリー
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

[翻訳blog] 実務翻訳雑記帳