浮魚日和

読書しながら考えたことをメモしています。

雑記

御歌


twetterのタイムラインに皇后陛下の御歌が流れてきて、素晴らしい御歌の数々を思い出した。
tweetにあるのは、紀宮様御誕生のときのもので、子を見守る暖かい母の眼差しというだけではなくて、やはり「あづかれる宝」を限りなく大切に見守るお立場が重ねられているように思う。雰囲気は、絹のように滑らかであるのに、どこか透明な緊迫感を感じる。

内親王様は、いずれは皇室から出て行かれることが運命づけられていることもあり、そうした将来をも遠くに見据えておられるように読めてしまう。それだけに、臣籍降下後も、神宮の式年遷宮を前に、静謐な決意を示される祭主様を詠まれた御歌が、時を隔てて呼応するかのよう。
み遷りの近き宮居に仕ふると瞳静かに娘は言ひて発つ
(平成26年歌会始「静」)


大切な御歌がいくつもいくつもあるけれど、とても微笑ましい御歌を書き留めておきたい。
母住めば病院も家と思ふらし「いってまゐります」と子ら帰りゆく
これは、紀宮様御誕生に先立って入院されていた皇后陛下を、皇太子殿下と秋篠宮殿下がお見舞いに来られたときのことを詠まれたもの。


くるみ食む小栗鼠に似たる仕草にて愛しも子等のひたすらに食む
(昭和46年 栗鼠)
こちらは、背をかがめるように夢中にかぶりつくような御姿が愛らしい。

和歌は素晴らしいと改めて思う。
皇后陛下が優れた歌人であられることが、どれほどありがたいことか。

仮名遣い再び

小堀桂一郎先生の文章に憧れて、正仮名遣いに挑戦してみたけれど、なかなか定着しない。

正字正仮名で育った世代の先生方には、背景に継続した生活の蓄積があるので、不自然さがない。山本夏彦『完本文語文』によると、文語文の生活がないと文語文が書けないとのことだった。その感覚はわかるような気がする。正字正仮名は、擬古文だけでなく、口語文の表記法としても優れたものであることはわかる。ただ、それが自分になじむまでには、まだまだ蓄積が足りない。

正字正仮名を書いてるときのちょっと距離のある空気感というのに、なかなか慣れないのだ。ただ、文語と口語がはっきり分かれていた時代において、文語としての擬古文を書く時にも、こうした距離感があったのだろうと思う。なので、tweetや普段の記事は新仮名遣いになってしまうけれど、たまには、まとまったものを、正字正仮名で書いてみたいとは思っている。いつかは擬古文にも挑戦してみたい。

紀元節

歴史学の世界では、仁徳天皇や天智天皇からの「日本」を認め、それ以前の皇統については、たとへば「古代史よりはさらに遠い、原史時代の伝説の世なのである」(岡田英弘『倭国の時代』)といふ見方がある。

このやうな視点による実証重視の歴史学も貴重である。しかしながら、国家や民族の伝統や理想は、実証の中だけにあるのではない。ある実証的な建国の時点を基準にしても、王朝がその瞬間に突如発生するわけではない。高祖といふ言葉があるやうに、建国あるいは創業の理想は、さらに先祖に遡るのである。外形的客観的には「建国」の実質を備えてゐなかつたとしても、そこから何らかの経時的な営みが継続してはじめて、建国として結実するのであるから、外形的客観的「建国」が由来する流れの濫觴を、紀元節とすることは極めて自然なことである。といふよりも、その濫觴こそが紀元節でなければならない。

「古代史よりはさらに遠い、原史時代の伝説」であることを客観的に見つめることと、紀元節を祝ふこととは矛盾なく両立する。ただ、今日のこの日に、このやうに文字を重ねるのは野暮といふものではある。




「思想」の力

小川榮太郎「「危機」と「知識人」ー「世界史を動かす「思想」の力を手にせよ」」『正論』(3月号)を読み、現在の日本の危機が思想の不在にあるといふことに共感した。

一読後、とりあえず以下のやうにtweetしたのだけれど、これからじつくりと「自由」といふキーワードに依拠して、この論文に対する感想を書いてみたいと思つてゐる。



まずは、小堀桂一郎『日本人の「自由」の歴史』を再読しつつ、書くべきことを整理してみやう。
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